2008年06月 / 05月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫07月

2008.06.26 (Thu)

出来損ないとしても

この広い世界の、沢山溢れる人間の中に埋もれている、ボクという1人の人間など、とても小さな存在だ。そしてこの世界のどの人間も、同じようにとても小さな存在であり、その小ささにおいてはどんな人間も平等である。

そうした小さなものが集まってこの世界ができているのだから、1人の人間を殺すことは、すべての人間を殺すに値する。
だから、1人を殺す行為も、複数を殺す行為も、その意味合いは等しいように思う。

同様に、もし誰かの存在を軽んじ、ないがしろにしたならば、それは多くの人々を軽んじ、ないがしろにしていることになる。


ボクもまた、人並みに他者を憎むし、羨む。そうした気持ちがボクの中にどうしようもなく沸き起こる時には、その憎い他者はボクでもある。人間である他者を真っ向から否定するなら、同じく人間であるボクは、自分を否定することになる。


自分を信じること、他者を信じること、ひいては人間を信じること。・・・それができないくらい犯罪の渦巻くこの世界。

なんて矛盾!

人間って出来損ないなんだろうか?
そうだとしても、出来損ないでも消滅できないのだから、彷徨いながらも向きあいたい。

テーマ : 文明・文化&思想 ジャンル : 学問・文化・芸術

00:58  |  idée  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.24 (Tue)

歌の導き

現在レッスンで使用している教本『プレ・インベンション』は、バロック時代の曲集であるから、奏法もバロック奏法となる。

バロック奏法といっても、ボクが把握しているのは、次の2点だけだ。

・左手と右手それぞれにテーマがあり、交互にメロディを繋いで弾いていく。テーマを弾いている時、もう片方の手は伴奏として弾くことを意識する。

・スタッカートは音を切って弾く記号である。現代音楽のスタッカートのように、鋭く短く弾くのではない。

どちらもとても難しいが、今難儀しているのはスタッカートだ。次の音までギリギリ待ちつつ、切って弾こうと意識すると、何だか重たいメロディになってしまうのだ。

このスタッカートの奏法は、その時代の楽器に由来するのではないかと思う。バッハらが活躍した当時、まだピアノは無く、チェンバロやオルガンが主流であったからだ。


ところで、先生に指導を受けている時、先生が横で歌ってくれるので、その歌声を表現するように弾くと、出したい音に多少なりとも近づけるような気がする。バイオリンの先生も、弾けない箇所はまず歌わせるし、歌を意識することは、楽器を演奏する上では重用なのかもしれない。

すると、声というのは、最高の表現力を持っているということになるのだろうか。

自分の一部である声を楽器とする手段と、楽器という自分以外の対象を扱う手段では、人の内界における在り様はかなり違いそうだ。

テーマ : 音楽 ジャンル : 学問・文化・芸術

09:00  |  piano  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.14 (Sat)

ビバルディ:ヴァイオリン協奏曲イ短調

ボクは3年と2ヶ月前からヴァイオリンを習っている。教本はスズキメソードを1巻から順にやっていて、現在4巻の、ビバルディのヴァイオリン協奏曲イ短調の第1楽章と第3楽章を平行で指導受けている。

ビバルディのヴァイオリン協奏曲といえば、一般的には四季が有名だが、こちらのイ短調は、スズキメソードをやってきたヴァイオリン弾きには、懐かしい1曲らしい。

ヴァイオリン弾きの誰に話しても、このa−mollというと、みんな懐かしいとか、今でも弾けるなあとか、過去に記憶が飛ぶようだ。その口ぶりからすると、みんなこの曲を愛しているように思う。おそらく大半は幼少時に弾いたと思うのだけれど、子供の頃に短調の曲を弾いているなんて、ちょっと大人な感じ。

例えるなら、まだ愛を知らないくせにラブソングを歌うみたいな(違う)。


しかし、ボクに取っては今現在進行形で苦労している最中だ。その苦労の片鱗を書くと・・・

・オケが背後にいることを想定して弾く(そんなの無理)
・久しぶりに第3ポジションが沢山出てくる(第2が無いだけましだと思いたい)
・高音域がひどい音(ボクだって耐え難い)
・長い曲なので、最初と最後で丁寧さに差が出る
・速度を一定に保つ

弓使いについては、そりゃあもう気をつけることだらけなのだが、弾いている最中には、なかなか気にすることができない。思うに、ヴァイオリンは、いくつかの作業を同時にする能力が必要だと思う。それがバランス良くかみ合ったとき、きちんとした奏法になるのだと思うが、先は大変長い。

テーマ : 音楽 ジャンル : 学問・文化・芸術

23:06  |  violon  |  TB(0)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.12 (Thu)

虚無

人は、時々、どうやって毎日を過ごしていっていいのか、解らなくなるときがある。そしてそれを避けるために、何かにいつも夢中になっている。

それは仕事だったり子育てだったり習い事だったり宗教だったり、あらゆる形態をとって、適度な生きる術が展開している。

皆、すべてが夢中なフリの訳でもない。大部分は本気で夢中になっているし、一方では、それに専念していることにしておいて、浮遊する心を繋ぎ止めておこうとしている。どこまでが自己欺瞞かなんて、誰にも解りっこない!


人間の心なんて、まったく不確かだ。

そして時に世界も不確かに感じられる瞬間がくる。

両手を伸ばしてもがいても、何も掴むことができず、何もないと、知ってしまう瞬間。


どうしようもないこの空虚が連続するなら、もはや誰も生きていけない。すぐさま自己保存欲が働いて、『今すべきこと』やら、『大義名分』やら『他者との関係』やらを引っ張り出してきて、死ぬことを回避するから、大抵の人は生きているが、これで虚無を埋める術を無くしてしまったら、もう毎日どうして生きたらいいのだろう?



ボク自身は、もう、死ぬべきではないことは十分に解るくらいには生きた。確かなモノの欠片も拾い集めたから、時に虚無が訪れても、それをやり過ごせると思える。それでも、この虚無がやってきた時の恐ろしさが、薄れることはない。


だからといって、虚無を遠ざけたいわけではない。

それは、真実を秘めているから・・・おそらくこの存在を知ってから、ボクは本当に生きている。真実を知りたいと言うことにかけては、ボクは貪欲なのだろう。

テーマ : 文明・文化&思想 ジャンル : 学問・文化・芸術

23:02  |  idée  |  TB(0)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.10 (Tue)

左利きのピアノ

バイオリンとピアノと2つの楽器を触っていて、大きく違うと思うところのひとつは、ピアノは自ら伴奏をするけれど、バイオリンは主旋律だけ、ということだ。

今やっている『ソナチネアルバム1』という教本は、大旨右手でメロディを、左手で伴奏をする。右手はスラーやスタッカート、クレッシェンドやデクレッシェンドなど、表情豊かな記号がついていて、弾いている時の意識は殆どそちらに吸い取られる。

対して左手は、レガート、もしくはドルチェなどと書かれていて、主旋律の邪魔をしないように、引き立てるように弾かなければならない。その左手に向けられる注意力が不足していて、殆どただ弾いているだけ、というのが今のボクの弾き方だと思う。・・・こうして書き留めることで注意したい。

『プレ・インベンション』という教本も平行してやっているが、こちらは対位法で書かれているものも多く、左手と右手が交互に主旋律を奏でる。この移動することもまた難しくて、ただ弾いているだけになることが多い。


それにしても、どうにも左手が弱いのは、ボクが右利きだからだろうか?

でもそうすると、大概の曲は右手で主旋律を弾くことになるのだから、左利きは不利、ということになるのではないだろうか?ハサミとちがって、左利きようの反転したピアノなんて聞いたことがないし、欧米には左利きのほうが多いとも聞くから、ピアノがわざわざ右利きに合わせて作られたわけでもないし。

・・・左利きのピアノ弾きに出会ったら、聞いてみたい。

テーマ : 文明・文化&思想 ジャンル : 学問・文化・芸術

23:14  |  piano  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.08 (Sun)

音楽

clavecin1



先日、友人がチェンバロでバッハの曲を演奏してくれた。

それを聞きながら、音楽を聞く意義について改めて考えた。音楽というのは、楽器(ここでは鍵盤楽器)の奏でる音そのものの美しさが第一の要因、拍によってもたらされる緊張感や安堵感が2つ目の要因、と思った。

楽器の音それそのものの美しさ。しかしそれだけでは我々は満足しない。組み合わせ、メロディを作り、そこに音“色”を載せていく。遙か昔、誰がこんなことを思いついたのだろう?それは神の存在を持ち出して語る程の素晴らしい思いつきだ。


小さな子供が、心の興奮を内側に封じ込められず泣いたり叫んだりする。それに近い衝動もまた、音楽を聴き、奏でることで解放されていく。
ある1つの曲は、ある作曲家自身の投影だが、その投影を別の誰かが聞いたり奏でたりすることで、作曲家と聞き手、奏者との間に共有される意識が発生する。

ボクはまだエチュードを中心とした簡単な曲しか弾いていないけれど、作曲家達がどんな思いでその曲を書いたのか、考えながら弾きたいと思う。

clavecin2


それにしてもチェンバロという楽器は、音色も姿も美しい・・・その音色の美しさは、魂を浮遊させる力がある。

テーマ : 文明・文化&思想 ジャンル : 学問・文化・芸術

22:10  |  musique  |  TB(0)  |  CM(5)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.06 (Fri)

この日本という国で、ある程度の都会に住んでいると、人間族はこの世界にありふれているように感じる。人間はもともと集落を作って生活してきたようだし、少なくとも現代の社会においては、文明に乗っ取って生きた方が圧倒的に便利だ、ということが、人間がよりあって生活している大きな要因を占めているが、便利さというだけではないだろう。


人は、人と交流しなくては生きていけない。


何らかのプロセスにより人と対時するだけの力を身につけられなかった(それはかつては本人の責任ではない)ために、人との交流を持つことを拒む人がいても、それは現在存在している人間に対してほとほと絶望しているのだ。

こうしてネットに文章をさらすことだって、人間族のオーディエンスを求めているに他ならないし、このパソコンという媒体を通して交流を持てる動物は人以外にはいない。

人嫌いの人が加速度的に増えているような印象の現在の世界において、このデータという人にしか受け取ることができないメッセージが同時に増えていることも興味深い。

人は人を求めているのに、同時に人を恐れている。そして、この恐ろしい存在にあふれた世界の、他者にとって恐ろしいボクの存在。

そうした存在の関わりあっていく仕組みを文章にしたためることで、いくらか考察してみようと思う。

テーマ : 文明・文化&思想 ジャンル : 学問・文化・芸術

20:21  |  idée  |  TB(0)  |  CM(3)  |  EDIT  |  Top↑
 | BLOGTOP |